また今年も、この日が来ました。
私の人生の、転機の一片を担った中越地震・・・。
2004年10月23日、私がまだ長岡人だったころの話です。
この日が来るたびに、以下の記事を読み返しています。
2011年3月に起きてしまった東日本大震災に比べてしまうと、
何もかも規模が小さく感じてしまいますが、
あの時はあの時で誰もが必死でした。
実に今日で丸九周年になる中越地震。
(中越沖地震は、その三年後の2007年7月です)
「忘れないこと」
それを続けるのも大事なこと。
以下は、7年前の2006年10月に書いた日記ですが、
あの地震を忘れないためにも、再掲します。
忘れもしない2004年10月23日(土)17:56、それは起きました。
めちゃめちゃに壊れてしまった道路や新幹線は、幸いにも早くから復旧作業が始まり、
2005年の夏くらいまでにはほとんどが支障ない程度に復旧しましたが、
実は2007年くらいまでは、不自由な仮設住宅暮らしを強いられている方々が
たくさんいらっしゃったのです。
当時私は長岡市民でしたが、土曜日当日はたまたま東京におりました。
地下鉄のホームで電車待ちをしていたところ、まず妹から電話。
電話出るなり「大丈夫!?」と第一声。
「え? 何が? 何のこと??」
「今さ、長岡ですごい地震が・・・」と妹が言い始めたとたん、東京も揺れました。
震度4の揺れでした。
あとで判りましたが、どうやらこれが新潟では三度目の大きな余震だったようでした。
妹の電話を切った後も、友人知人から「大丈夫??」の電話やメールが。
一向に事態をつかめない私は、友人と共に外出を取りやめ一旦友人宅に。
同じ映像ばかりで他に何も情報が入ってきませんでした。
「ずっとこんな感じの映像ばかりだね、とりあえずお夕飯でも食べてくるか~」と
情報が入ってこないから、とは言え、本当にその時は暢気なものでした。
翌朝、珍しく朝早く目覚め、テレビをつけたところ・・・
粉々に崩れた高速道路。
転がっている新幹線。
復旧工事中の転がった新幹線。遠いですが、クレーンで吊ろうとしているのが判ります。
その後ろの山の向こう側が壊滅状態だった「山古志(やまこし)村」です。
これはただごとではない!とようやくその時点で状況を把握、
月曜日お休みをいただいていたにも係わらず、まず帰ろう!と思いました。
会社に行かなきゃ・・・
(注:有事のときこそ行かないといけない職業なのです・・・)
でも新幹線は止まっている、高速はダメ・・・
でもちょうど当日、義母が軽井沢に貸し切りバスで来ていた偶然が重なり、
東京→長野新幹線で軽井沢→貸し切りバスで新潟へ戻ることに。
軽井沢へは、新幹線車中混むこともなくすんなりと行けました。
いつもとは違う面持ちで駅に降り立ち、あたりを見回したら見事な紅葉。
隣県なのに、ここは見事なほど「普通の秋の景色」。
不思議だな・・・
そう思っていたところにかおりちゃんから
「羽田から新潟空港行きの臨時便が出ますよ」と。
かおりちゃんの自宅は何と、小千谷市在住、まさに土砂崩れの川口の隣でした。
当日は、車庫に止めていたパジェロイオが、
本当に立ってられない揺れのせいで「跳ねた」そうです。
家屋倒壊等の被害は無かったのですが、電気・水が泊まり、
暫くは自宅でお風呂に入れない、食事が食べられない、
車の中での寝泊りなどの不自由をされたようでした。
軽井沢を昼に出発、長岡の自宅に到着したのが夜22時でした。
道中ずっとバスの中だったため、現地の情報は全然入ってこなくて、
柏崎インター(長岡市内までは一時間の距離です)では出口渋滞で2時間、料金所出ても渋滞。
途中寄ったコンビニではお弁当・おにぎりはもちろん、カップラーメンさえも売り切れ状態。
「どうなっちゃうんだろう・・・?」
言いようのない不安が襲ってきました。
自宅に着き、中に入ったら一階のリビングはこんな感じ。
(でもまりこさんに多少片付けてもらったあとです)
食器棚は開閉式のものではなくスライド式のものだったので、幸い飛び散らずに済みました。
時計が、まさに地震第一波の時間を指したまま落ちていました。
二階がもっとすごかったです。
女手では動かせない棚が10センチ、本当に跳ねたように床に傷跡も無く動いていました。
本は全部投げ出され、文具や書類もめちゃめちゃ・・・
ため息付く暇も無く、そこでバチっと電気が消え、停電。
電気が落ちてしまうと家電も通じず、外の外灯も真っ暗。
本当に静かな闇だけが押し寄せて来ました。
あの時は、携帯だけが、自分以外の世界に繋がる唯一の手段でした。
着のみ着のままで寝ることにし、
いつも寝ていた二階のロフトで寝るか、
それとも逃げ易いように寝なれない一階に布団を持ってくるかで悩みましたが、
やはりいつも寝ていたところにしよう、と。
本当に顔も洗えないまま携帯握り締めて寝ました。
その夜、一時間に一度は、有感地震がありました。
聞こえるんです、はるか彼方から「ズズ・・・っ」と低く響く音が。
その数秒後、必ず揺れるのです。
何回も何回もその音を聞いたので、「あ、揺れるな」と判るようになってしまいました。
その揺れのため、夜は一時間ごとに目が覚め、そして朝方の震度5でぶっ飛んで目が覚めました。
「余震でこんなに凄くて怖いなら、本震体験しなくてよかった!」
その時真面目に半泣きで思ったのを覚えています。
実は日曜日、東京から新潟へ丸一日掛けて戻ってくるしかなかった私の代わりに、
まりこさんが、私の母の安否を確かめに崩れた国道を避け、渋滞をよけ、裏道を探し、
まだ余震激しい長岡まで来てくれたのです。
母の分の食料と温かいお茶の入ったポット、懐中電灯まで持参で・・・。
そして避難先の近所の小学校まで付き添ってくれたそうです。
母も、幼稚園の頃から知っているまりこさんの顔を見て、どんなにか安心したことでしょう。
本当に、ありがたくて涙の出る思いでした。
こんなに長く綴るつもりは無かったのですが、
書いているうちに久々あの時の恐怖、
そして支援してくださったたくさんの方々への感謝を思い出しました。
敢えてこういう形でブログに残せたのも、それで良かったかもしれません。
私はあの地震で人生が変わりました。
いろいろな出会いと機会をいただきました。
あの地震が無かったら、私は今ここ東京には居なかったかもしれません・・・
人生、何が起こるかわからない、とは本当にそうだなって思いましたが、
皆さんの身に不可抗力の災害が及ぶことのありませんように・・・
**追記**
被災地の方々にとって、携帯は唯一の命綱です。
出来れば有事の時は、肉親以外の友人知人の方々には、
安否確認の電話やメールは控えて上げたほうが、配慮になります。。。
(電池が減ってしまって、停電で真っ暗な中、すごさなくてはならなかった、
大事な連絡が取れなくなってしまった、などのことが防げます)
また、普段から、電源以外での充電器を用意しておくこともお奨めします。
新潟日報社の冊子。土日現地に居なかった私に取って、
土日に何があったかを知る手がかりになりました。
その本の中身。冗談抜きでこんな感じの道ばかりでした・・・
【当時の記憶メモ】
*自宅の母への電話(家電)は揺れ直後(15分以内)は通じましたが、それ以降はまったくダメでした。
*電源が切れたあとの家の電話は、実に不思議な呼び鈴の音がします。初めて聞くとびっくりするかも・・・
優太くんが92時間後に救出された場所です。(2004.11.11撮影)
【その後、東日本大震災の記録】